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昔から札付きの天の邪鬼で、へそ曲がりで、その上皮肉屋だから、わたしだけの受け止め方なのかもしれない。
しかし断固としてこれは違うだろう!と言いたい。
近頃メディアが取り上げる「千の風になって」だ。
この「千の風 A THOUSAND WINDS」は、ジョン・ウェインによってハワード・ホークス監督の葬儀の席で弔辞として読まれたことは前から知っていた。悲しみに沈む故人の親族に捧げる弔辞としてふさわしい詩だと思っている。だから内容には何の文句もない。

ところが日本における昨今のこの詩のもてはやされかたといったらどうだ。
新井満氏が訳詞と曲をつけてCDにして、メディアに取り上げられてから話題になり、その後、オーケストラをバックにステージで朗読されたり、テノール歌手に腹の底から高らかに歌い上げられたり、あげくは、テレビ局が新聞に全面広告を掲載して「あなたの千の風体験」の募集までしてしまった。

募集内容はこうだ。
募集するのは「あなたの千の風体験」です。
「千の風になって」に癒されたという具体的なお話。ご自身の体験談や、身近な方々のエピソーも含まれます。ただし、周囲の方々の場合は関係者の同意を得てからご応募ください。(以下略)


この「千の風体験」を元に、ドキュメンタリー・ドラマ「千の風になって」を制作し、今夏TV放送する予定だそうだ。「千の風」感動の大キャンペーンである。さあ、みんなで癒されましょう。集まって皆さんで感動しましょう!
日本人の手にかかると「A THOUSAND WINDS」はこんな消費のされ方をしてしまうのか。
違うだろう! おかしくないか。
この詩は、唄うにしてももっと個人的に唄い、個人的に朗読し、個人の心の中でひそやかに癒されるものではないのか。


10年ほど前、ロマの暮らしを描いた映画『ガッジョ・ディーロ』を観て感じ入ったことがひとつあった。この映画の中で息子を亡くした父親が嘆き悲しみながら、息子の墓の前で唄いかつ踊るシーンである。このとき感じたのは、こんな風に悲しみを身体全体で表現できる歌や踊りが日本文化にもあるといいなということだった。
果たして、この「千の風になって」が日本人が弔意あらわす際の詩として今後定着するのだろうか。今の人気ぶりを見ているとあるいは古典となる可能性はあるかもしれない。残された遺族がこの詩や歌で癒されるかもしれない。しかし、わたしは心の中でつぶやきはしても、唄うことも、口にだして朗読することも決してないだろう。恥ずかしいからだ。内容が恥ずかしいのではない。徒党を組んでのあられもない感動ごっこ、癒しごっこが恥ずかしいのだ。


私家版 『千の風』

私のお墓の前で泣かないでください
私はお墓の中にいません

私は千の風になりました
千の風になって
あの大きな空を吹き渡っています

でも、だからといって
商標登録なんかしないでください
大きなテノール声で高らかに唄わないでください
オーケストラをバックに朗読しないでください
ドキュメンタリー・ドラマにしないでください

せめて、静かに小さな声で語ってください
私は千の風になりました
千の風になったわたしは
心穏やかに
これからもあの大きな空を気持ちよく
吹き渡っていたいですから



YOU TUBE「千の風になって」





運営開始早々に三歳児が置き去りにされたことで「赤ちゃんポスト」の賛否をめぐる議論がブログでも熱を帯びています。
今回の三歳児の置き去りは親の保護者遺棄罪にはあたらないらしい。安全な場所に置いているので危険にさらしてはいないというのがその理由。なんだか釈然としないが法的にはそういう結論になるようだ。
もっと年長の子どもや、寝たきりの老人が置き去りにされたり、犬や猫も捨てられるといった可能性に言及しているブログも散見される。たしかにそうしたケースも今となっては想定外とは言えなくなってきた。
昔なら、お寺や教会の前に捨てられただろうが、病院というのが現代社会を象徴しているような気がする。人は病院で生まれ、病院で死ぬ時代だから違和感がないのかもしれない。

子捨てを助長するとする反対派も、親の虐待から子どもの命を救うとする賛成派も、「赤ちゃんポスト」設置の是非について本当は決めかねて心が揺れているのが本心だと思う。わたしもこの問題について考えると落ち着かない気分になる。
もともと「赤ちゃんポスト」自体が、親の虐待、ネグレクト、責任感の欠如、命の軽視…といった社会問題に対する解決策のささやな一助になればと、善意で設けられたものだから、「赤ちゃんポスト」の是非を巡って議論しても有効な解決策は期待できない。
「赤ちゃんポスト」に問題を絞れば議論がしやすいから盛り上がっている面があるのだろう。しかし、関心があるなら、本当は「赤ちゃんポスト」ではなく、親の価値観や人生観、親を取り巻く環境、親の教育などについて考えた方がいいだろう。もっと大きな文脈で問題設定すべきだが、それではどうすればいいのかと考えると途方にくれる。
いずれにしても、病院はメディアに情報を与えないほうがいいし、メディアも「赤ちゃんポスト」の報道は差し控えるべきだろう。

それにしても、自分で三歳だといい、父親につれてこられたと話しているこの子どもを思うとせつない。
寝ている母親を刃物で刺して、首を切断した高校三年の少年の殺人事件もあり、大仰なことはいいたくないが、なんだか、日本社会に伝統的にわずかに残っていた大切なものまでがつぎつぎと壊れてきているような不安を感じる。これまでは当然として信じてきたものが土台から崩れてしまうような不安だ。
ポストモダン論者が指摘するように、この先ますます隣人不信が増幅され、監視社会になってゆくんでしょうか。