東京の天気予報
-天気予報コム-
これまで特定のブログを批判をしたことはなかった。
しかし今回はある記事を取り上げる。『カナダde日本語』というブログの記事である。よくは知らないがこのブログは政治部門ランキング1位にもなる人気ブログであるらしい。ランキングにさほどの意味があるとは思わないが、1位になるぐらいなら大勢の読者に影響があるだろうと考えたのも取り上げる理由のひとつである。

さて、時間の許す人は、まず以下のふたつの記事に目を通してもらいたい。
人の痛みが分からない人たち」(「きっこのブログ」)と、その記事への反論として書かれた「『きっこのブログ』「人の痛みが分からない人たち」を読んで」(「カナダde日本語」)である。
光市母子殺害事件の量刑(死刑判決)が妥当であるか、重すぎるかが中心テーマになっている。『カナダde日本語』の管理人は、“カナダで日本語を教えるdesperateな女教師”と自己紹介されている。彼女は死刑廃止論者で、今回の死刑判決を重すぎると考えている人物のようである。

以下、両ブログの記事から随時引用する。

きっこ氏は死刑判決を支持する立場を明らかにした上で次のように書いている。

「何の罪もない女性が、異常な凶悪犯に惨殺されて、そのあとに死姦されたのに、その凶悪犯に対する死刑の判決を「重すぎる」と言う人たち。わずか14才の少女が、野蛮なアメリカ兵に騙されてレイプされたのに、その少女のほうにも非があるという人たち。あたしは、こうした人たちって、自分自身が、ホントに苦しんだことのない「恵まれた人たち」なんだと思う。フクダちゃんみたいに、何でも「他人ゴト」で論じられる人たちなんだと思う。理不尽な暴力によって、自分が苦しんだことがないから、こうした無神経なことを平気で言えるんだと思う。ようするに、想像力が乏しくて、神経が鈍感で、人の痛みが分からない人たちなんだと思う。」



これに対してカナダの女教師氏は次のように反論する。

「誰だって殺された母子や二人を一度に失った本村氏の悲しみや痛みは容易に想像できるし、わかっている。わからないから、加害への死刑という刑が重過ぎると言っているわけではないのだ。遺族が殺されたことのない人だって遺族を殺された人の痛みがわかるように、レイプされたことがなくたってレイプされた人の痛みはわかる。」
「この事件で死刑が重すぎると考える人たちは、被害者遺族を思うからこそだ。」



実は、きっこ氏は「人の痛みが分からない人たち」の記事の中で、自らがレイプ犯罪の被害者であったという“死ぬほど書きたくない”過去の事実を告白している。

「…何日も眠れない日が続いて、発狂しそうなほど苦しんだ。もう20年近く前のことだけど、今でも時々夢に見て、明け方に叫び声を上げながら目を覚ますことがある。あたしの心の傷は、一生、癒えないと思う。野蛮な男にレイプされた女性は、一生、苦しみながら生きてくしかないんだよ! 分かるか?このクソ野郎!」


と心中を正直に吐露している。

女教師氏はきっこ氏のこの文章を読んだ上で、「レイプされたことがなくたってレイプされた人の痛みはわかる。」と言ってのけているのである。さらに、妻子を殺された本村洋氏に対して、「本村氏の悲しみや痛みは容易に想像できる…」「死刑が重すぎると考える人たちは、被害者遺族を思うからこそだ。」とまで言いきる。彼女の発想と論理はわたしの理解を超えている。こうした独りよがりで浅薄な発言がこれまでどれほど関係者を傷つけてきたことだろうか。


さらに女教師氏は記事をこう締めくくっている。

「最後にきっこちゃんへ。
辛い思いをしたきっこちゃんがいまだにその当時の夢を見てうなされるほど、そのレイプ犯が憎いのはよくわかるよ。でも、いつまでもその犯人に恨みを抱いていると自分が辛くなるだけだと思う。難しいこととは思うけど、犯人を許して、自分もその事件から解放された方がいい。そうすることによって、今よりももっともっと世界は広がっていくのではないかと思うよ。きっこちゃんが罰をくださなくったって、一人は逮捕されたじゃない。悪い奴は自然に悲惨な運命をたどるようになる。きっこちゃんがそいつらを怨んだからって何も変わらない。きっこちゃんが辛い思いをするだけ。きっこちゃん、この事件から自由になって、どうか、幸せになってください。」



なんという言い草だろう。読んでいて胸が悪くなった。
この女(女になっちゃった)は、妻子を理不尽な暴力で失った本村氏の痛みや悲しみが分かり、レイプ被害の当事者であるきっこ氏の痛みもわかる――自分に類似の経験がなくても、他人の痛みをなんでも分かってしまう特異体質の人物であるようだ。

女教師氏が「痛みは分かる」と感じるのは個人の勝手だし自由である。しかし実際に苦しんでいる被害者に向かって第三者が軽々しく「痛みは分かる」を連発するのは差し控えた方がいいのではないか。いやもっと正直に言おう。自分の発言の非論理性、軽薄さ無神経さに気づかないこの女教師氏には他人の痛みや悲しみは分からない。分かるはずがない。少しでも共感・同情の気持ちがあればこのような発言にはならない。それが私の言いたいことだ。
この記事をわたしに書かせたのは、カナダで日本語を教えているらしいこの女教師の言葉の耐え難い軽さである。

180px-Carlos-Smith.jpgWikipedia
北京オリンピック聖火が長野に到着する。
オリンピックと政治は切り離すべきだ、というのはその通りだと思う。しかし国際世論に訴えるしか抵抗の手段をもたない政治的弱者にとって、オリンピックが政治弾圧の存在を世界に知らせる千載一遇のチャンスであるのも事実だ。

オリンピックが政治的に利用された「事件」として思い出すのは、1968年のメキシコオリンピックだ。陸上200m走でメダルを獲得した二人の黒人選手が、表彰台で黒い手袋をした握り拳を突き上げ、国旗が掲揚される間うつむいたままの姿勢をとり観客を驚かせた。黒人選手はアメリカ国内での黒人差別をこうしたパフォーマンスで表現したのだった。

この二人の黒人選手・スミスとカルロスはアメリカ・ナショナル・チームから除名、オリンピック村から追放、メダルは剥奪された。帰国後も、二人は激しい批判にさらされ、ほとんどのスポーツ界から追放された。しかし後年名誉を回復し、2005年には二人の抗議行動を賞賛するための銅像が建立された。

土佐の山猿だった少年(私のこと)も、テレビでこのパフォーマンスを見た。政治や国際問題にまったく無知だっ少年は、アメリカの黒人問題をこの時初めて強く意識した。メダルを獲得した若きエリートアスリートである二人の黒人選手は輝かしい人生が約束された存在だったのに、エスタブリッシュの反発を招く行為をあえて選んだ。そのことに、やむにやまれぬ何か切実な問題があることを無知な田舎少年でさえ感じとったのだった。

北京オリンピックが成功するといいと思っている。オリンピックも見たい。
しかし、チベット亡命政府やチベット人民が、中国の人権弾圧を国際世論に訴えるためオリンピックを利用したとしても、それを頭から否定する気にはなれない。
1968年のメキシコオリンピックと黒人問題に直接の関係はなかったが、チベット弾圧は開催国中国の政治問題である。オリンピックの開催国になることは、国際社会で名誉ある地位を得ることでもある。中国は名誉ある一員であることに恥じない存在にならなければならない。



朝日新聞記者 犯罪被害者を逆撫でするような不適切な質問


youtubeで「炎上」しています。
「二人しか殺していないのに、今回死刑判決が出たせいで、少年犯罪の死刑のハードルが下がってしまった。これって問題じゃないですか?」
――といわんばかりの質問を、朝日の記者が本村さんにしている。妻子を理不尽な暴力で失った本村氏に向けた質問としてその無神経さは特筆ものである。まったくもって無礼で、お門違いで、おバカな質問だが、本村さんの返答はあいかわらずすごい。
その自制心、その論理、その知識、その気迫――。敬服に値する。

追記
削除されたようです。

朝日記者「死刑に対するハードル下がった」

こちらもすぐ削除されるかもしれません。お早めに。
朝日の記者の質問にかんする内容は上の動画と同じです。
削除→再アップロード→削除→再アップロード→…がしばらく続くと思います。
もしこの動画も削除されたら、youtubeに同じ内容の動画がアップされるはずですから、そちらへどうぞ。残念なのは多数のコメントも削除されることですね。削除する側はそれが目的でしょうけど。



光市母子殺害事件の差し戻し控訴審で、広島高裁は被告の元少年に死刑判決を言い渡した。

弁護団が被告の弁護をするのは職業上の当然の義務だが、今回の差し戻し審での弁護団の弁護は果たして被告に有利に働いただろうか。あまりにも非現実的なその内容はかえって被告への裁判官や世間の心証を悪化させたのではないか。弁護団は被告の発言だからそのまま受け取るしかないと言ってるが、被告の精神年齢の幼さを装う弁護団の意図が感じられ、内容はとても信じられない。

最高裁は、事実はゆるぎない。死刑を回避するにたる情状酌量の検討余地が残されているかどうかを審理せよと、差し戻したのに、弁護団はこれまでの事実認定をことごとくひっくりかえした。わずかでも勝算があってのことだったのかはなはだ疑問である。

最高裁がすでに判断を下した事実認定を争うのではなく、実父からの家庭内暴力や母の自殺など恵まれない家庭環境、本人の精神年齢の低さ、判断力の幼さ、まだ未熟な少年であったことなどの情状を訴えることにもっと傾注すべきではなかったのか。そうしていたら、例え判決は同じであっても、世間の元少年への印象はこれほど悪くならなかったはずだ。。
いくら弁護が目的であっても、良識を著しくはずれた主張は弁護士の“職業上の義務”という一言では正当化できないと思う。常軌を逸した今回の弁護団の主張には本事件の弁護とは別の“下心”を感じざるを得ない。

弁護団以外にも、本事件にからめて死刑制度問題やマスメディア(特にテレビ)の報道姿勢を同時に論じる向きがあり、争点を複雑にしてきた。
被害者遺族の本村氏は、本事件は法が定める最も重い刑罰に値する犯罪であると考え、日本には死刑制度があるから死刑を求める、もし無期懲役が最高刑であるなら無期懲役を求めると言っているのであり、妻と幼い娘を殺された本村氏にしてみれば、きわめて正当な要求だと思う。本村氏に向かって、「なにがなんでも死刑にしたいのか!」と非難するのは不当である。(なにがなんでも死刑にしたいと望んでもちっとも無理はないと思うが…)

私は今回の判決を支持する。

2004-10-01 12-11-33FX7-s

草深い土佐の高知から東京にやってきた私は、マザータングである土佐弁と東京弁(標準語)を話すバイニンガルである。
しかし上京してすでに30年以上になるので、土佐弁の方はかなりあやしくなってきている。東京弁の方もいまだに十分身に付いたとは言えない。方言の“なまり”のことを言っているのではない。30年も東京に暮らしていればそれなりに標準語を話すことはできる。それでも標準語は今も自分の言葉とは言えず、あいかわらずよそよそしい言葉なのである。それは何故か?

標準語の一番の問題は言葉に感情が乗らないことである。標準語はビジネスの現場でしゃべる分には不都合を感じないが、生活の場で感情を込めてしゃべろうとすると、いつも自分の気持ちと言葉の間にすきまを感じるのである。標準語に感情がこもらない理由として、子音が多いことが指摘されている。
「そうです。」と言うとき、標準語では語尾が「des」となり、子音で終わる。関西弁(京都弁?)では「desu」と母音が強調される。この母音に感情がこもるのであり、子音の多い標準語では感情表現が困難だという説である。
だとすると、土佐弁から関西弁への移行だったら、違和感なく感情表現が可能ということになるが、実際のところどうなんだろう。

確かに、東京弁で話している人間が、すごみを効かせたり、感情をこめたい時だけ(いいかげんな)関西弁に切り替えることがよくある。
母音の「アイウエオ」は言葉ではなく“うめき”だと司馬遼太郎氏がどこかで書いていたと記憶している。標準語の軽やかな子音でけんかをするのは難しい。けんかや感情には“うめき”である母音が必要とされるということである。

もちろん問題は子音・母音ばかりではない。
高知で育った私には、人工語である標準語ではそもそも表現できない言葉が多々ある。いきなり下ネタになって申し訳ないが、東京では「オ○○コ」などというが、高知生まれの私にとってこの隠語はちっともいやらしく感じない。高知では「イ○コ」と言う。ちょっとの違いにすぎないがこちらはいやらしい語感がある。同じ意味だが実用的には別の言葉なのである。

腹を立てて、「バカヤロー」などと言っても本当はあまり感情をこめて言うことができない。どこか翻訳している感じがある。土佐弁で「なめたらいかんぜよ」と言った方がよほどすっきりする。
「大丈夫だよ。」というより、「なんちゃーないきに。」の方がおもいやりの気持ちがこもる。
「愛している。好きだ。」などとはもちろん言わない。この場合は土佐弁でも難しいが、気持ちを込めるには、「オレの気持ちはわかっちゅーろぅ?」とでも言うしかない(と思う)。

30年間東京に暮らしていても、いまだに標準語では自分の感情を表すことができず、もどかしい思いをしているのである。標準語は今後も私にとって不便でよそよそしい言葉でありつづけるだろう。
たった二本しかない腕でも“利き腕”は左右いずれかの一本のみである。
何十カ国語をしゃべる言語の天才であっても、マザータングに匹敵する言語の獲得は不可能なのではないかと想像するが、天才でない私に本当のところはもちろんわからない。




新潮文庫
70歳になった東海林さだお、赤瀬川源平両氏の経験に裏打ちされた深い洞察が詰まった一冊。軽く笑いながら、いつの間にか人生の真実に触れている自分に気づく。

「主張と収入の和は一定である」(渡辺和博)
フリーランスでやっている人間ならすべからく深く心にしみる定理。
説明は不要ですね。

「発見はすべてアナロジーである」
「人間には何もないところに何かを創り出すような創造力はないというのが、私の説なんです。必ず関係なさそうにみえる、AとBを回路で繋ぎ合わせる。これが独創なんです。」(藤原正彦)

創造というほどおおげさでなくとも、アイデアを必要とする仕事に従事している人間なら深く納得する名言。
その他、下町の碩学による、心の琴線に触れる名言が満載。これで500円とは安すぎる。


今日から、75歳以上の老人は、いままで加入していた国保や健保を脱退させられ、「後期高齢者」という名の独立した保険に組み入れられた上、保険料は年金から天引きされる。私の両親は80歳を超しているので当然新医療制度の対象者になる。おまけに母は入院している。医療費負担は深刻だ。

福田首相は、後期高齢者医療制度という名称がよくないから長寿医療制度に変更しようとか、説明が足りなかったせいで理解されていない…、などととぼけたこと言っているが、名称や説明不足が問題なのではない。内容が問題なのである。

年金制度そのものがガタガタなままなのに、保険料の支払いを年金から天引きするとはなんというあつかましさだろう。その新しい制度もスタートからおそまつな不手際が噴出している。一方で、公務員は公務員専用の共済年金に加入しており、彼らの年金は安泰だというのだから腹が立つ。こんなことでよく暴動が起きないものだと思う。

この制度は2年前の小泉政権時に導入が決まった。痛みを伴う「小泉改革」のひとつなのだ。よくもこんな酷い制度改悪ができたものだと思う。それでも小泉氏はいまだに人気があり、その人気を頼みに政界再編成に手を突っ込み、政治家として存在感を示そうとしている。これほどひどい目にあっていながらなぜいまだに小泉人気なのか。本当に救われない国民だ。

DSC_4299.jpg

いまさらながら、
ダブルクォーテーション開きと閉じ“”の入力の仕方
やり方1
Shift+2で入力すると「”」閉じのクォーテーションになる。その後、変換して「“」開きにする。
やり方2
かっこ」と入力してから変換すると「“”」開きと閉じとなる。
どちらにしても面倒。
直接入力で「“」開きができると便利なのだが…。



2008.04.10 母が入院した
super A venu400 12

今日も冷たく陰鬱な雨が降っている。四月の雨は心を暗くする。
雨滴が窓ガラスを蝸牛のようにじわじわと這っている。
4階の出窓からは道の遠くまで見える。さっきからウインカーを出しっぱなしの車が駐車していて、その黄色い点滅が蝸牛の向こうに滲んで見える。
赤やオレンジ、黄色の傘を差した女子中学生のグループが道路から姿を消すと、窓外の景色はどれも色を失ってグレー一色になったように感じる。
耳を澄ますと、雨音が窓の外のどこかで、コツ…コツ…コツ…と規則正しいリズムを刻んでいる。

kodak super gold400 45mm  16

母が入院した。
もう快復することも、病院から家に戻ってくることもない。
電話の向こうの父は、淡々と、しかし断定的な口調で言った。
父の話はいつも短い。結論だけを放り投げるように話す。
冷淡な息子も言葉少なく受け止めた。



国交省の職員が深夜タクシーを利用して帰宅した。
その利用回数が年間190回で、タクシー料金総額500万円也。
一人の職員の年間のタクシー代が500万円ですよ。一回の利用が25000円以上になる。
毎日毎日国民のために深夜まで残業ご苦労様――って、話じゃないだろう。

で、この職員がどうなるかというと、たぶん「今後はタクシーの利用を減らすように」と注意されて一件落着にきまっている。
税収が減った、消費税のアップを…といいながら、一方でこのありさまだ。
500万ものタクシー代金を請求する職員の神経、それを認める国交省の神経がわからない。
即刻この職員を証人喚問しなさい!


Ninja!

2008.04.07 カシオEX-F1


一応備忘録として…
YouTube撮影モードがあって、ウェブにアップしやすくなっている。
ハイスピードムービーのメーカーサンプル画像

BENH.jpg

チャールトン・ヘストン死去。享年84歳。
ヘストンといえば、なんと言っても「ベン・ハー」だが、記憶に残っている作品は、「十戒」(1956年)、「大いなる西部」(1958年)、「ベン・ハー」(1959年)、「猿の惑星」(1968年)、「ソイレント・グリーン」(1973年)などだ。こうして列挙してみると、1950年代に代表作が出そろっている。

歴史劇でブレイクしたので、SF映画の「猿の惑星」に出演したときは意外だった。「猿の惑星」は神戸の映画館で観たが、劇場の扉に「この映画は絶対途中から入らないでください。」と注意書きがあったのを記憶している。当時はまだ途中からでも自由に入ることができたのだ。確かにこの映画のラストシーンはショッキングだった。私がSF好きになった理由のひとつがこの映画である。
劇場の巨大なスクリーンに負けない大型俳優だった。

晩年は、全米ライフル協会の会長として銃規制撤廃を主張していたので、タカ派の印象が強かった。ヘストンの姿を最後に見たのは、「ボーリング・フォー・コロンバイン」のインタビューで、すでに老衰ぶりが痛々しかった。全米ライフル協会は政治圧力団体だが、彼は会長になったものの、あまり政治に興味がなかったのではないかと思われる。


以下の引用は、関西テレビ「ぶったま!」に生出演した天台宗の別格本山・書寫山圓教寺(しょしゃざんえんぎょうじ)の大樹玄承(おおきけんしょう)執事長の声明文である。
(東京在住の私はテレビ番組を見ていない。内容はYoutubeで知った。次々と削除されているので見たい人は早めに。)

葬式仏教と揶揄されてきた日本の仏教者が、今回のチベット問題に関して声を上げたことを評価したい。余談だが、映画「ラスト・サムライ」のなかで、トム・クルーズが渡辺謙を通じて武士道に共感する場面は、この書寫山で撮影されたそうである。

 「いま私たち日本の仏教者の真価が問われています。
チベットでの中国の武力行動によって、宗教の自由が失われる事に、心から悲しみと止むに止まれぬ抗議を表明せずにはいられません。私たちはあくまでも宗教者、仏教者として僧侶をはじめとするチベット人の苦しみをもはや黙って見過ごす事ができません。チベット仏教の宗教的伝統をチベット人の自由な意思で守ると言う事が大切な基本です。

皆さんは日本の全国のお坊さんがどうしているのかとお思いでしょう。日本の各宗派、教団は日中国交回復の後、中国各地でご縁のある寺院の復興に力を注いできました。私も中国の寺院の復興に携わりました。しかし、中国の寺院との交流は全て北京(政府)を通さずにはできません。ほとんど自由が無かった。これからもそうだと全国のほとんどの僧侶は知っています。

そして日本の仏教教団がダライ・ラマ法皇と交流する事を北京(政府)は不快に思う事も知られています。あくまでも、宗教の自由の問題こそ重大であると私は考えています。しかし、チベットの事件以来、3週間以上が過ぎてなお、日本の仏教会に目立った動きは見られません。中国仏教会が大切な友人であるなら、どうして何も言わない。しないで良いのでしょうか?ダライ・ラマ法皇を中心に仏教国としての歴史を重ねてきたチベットが今、無くなろうとしています。私たちは宗教者、仏教者として草の根から声をあげていかなければなりません。

しかし、私の所属する宗派が中国の仏教会関係者から抗議を受けて、私はお叱りを受ける可能性が高いし、このように申し上げるのは私たちと行動を共にしましょうという事ではないのです。それぞれのご住職、壇信徒の皆さんがこれをきっかけに自ら考えていただきたいのです。オリンピックに合わせて中国の交流のある寺院に参拝予定の僧侶もいらっしゃるでしょう。

この情勢の中、中国でどんなお話をされるのでしょう。もしも宗教者として毅然とした態度で臨めないのならば私たちはこれから、信者さん檀家さんにどのような事を説いて行けるのでしょう。私たちにとってこれが宗教者、仏教者であるための最後の機会かも知れません。

書寫山圓教寺執事長
大樹玄承 
平成20年4月5日」


天台宗別格総本山書写山圓教寺大樹玄承執事長よりの声明


解説者の青山繁晴氏の、猛々しくてなれなれしい態度が気になったが、どうやら青山氏の個人的な後押しで実現した今回のテレビ出演だったようなので、よしとしよう。東京のテレビ局はなにをしているのか。

親・中国派の福田政権下でチベット問題は矮小化されている。政府は中国に遠慮して言いたいことも言わないでいる。宗教家が、中国当局の威圧行為にもの申すことが、これだけ勇気を必要とするところをみるとすでに言論の自由は危機的状態にあるのではないか。
言論の自由がある日突然なくなるわけではない。それは戦前も同じだった。序序に外堀が埋められ、次に内堀が埋められて気がついたときは本丸が陥落していたのだ。


セブン_

中国によるチベット迫害はこの映画でも知ることができる。
ブラッド・ピット主演『セブン・イヤーズ・イン・チベット』

それにしても、もしウェブが無い時代だったら、東京在住の私は大樹執事長のこの声明を知らないままだったにちがいない。ジャーナリズムの劣化を強く感じる。




それまであまり知られていなかった人物が、ある事件をきっかけに、突如浮上して全国区的有名人になることはたまにあるが、今年は稲田朋美・衆議院議員がその人だろう。
小泉チルドレンの一人だということ以外、彼女についてなにも知らないが、映画「靖国 YASUKUNI」を上映中止に追い込んだ極右政治家として今年の彼女はブレイクするだろうから、これからいろいろと知ることになるだろう。
注目していきたい。

本日、ペンタックスはHOYA株式会社に吸収。
ペンタックスはHOYAイメージング・システム事業部内のブランドとして残ることになりました。
さようなら栄光のPENTAX。新たな門出に幸あらんことを――