2008.04.21
標準語という人工語

草深い土佐の高知から東京にやってきた私は、マザータングである土佐弁と東京弁(標準語)を話すバイニンガルである。
しかし上京してすでに30年以上になるので、土佐弁の方はかなりあやしくなってきている。東京弁の方もいまだに十分身に付いたとは言えない。方言の“なまり”のことを言っているのではない。30年も東京に暮らしていればそれなりに標準語を話すことはできる。それでも標準語は今も自分の言葉とは言えず、あいかわらずよそよそしい言葉なのである。それは何故か?
標準語の一番の問題は言葉に感情が乗らないことである。標準語はビジネスの現場でしゃべる分には不都合を感じないが、生活の場で感情を込めてしゃべろうとすると、いつも自分の気持ちと言葉の間にすきまを感じるのである。標準語に感情がこもらない理由として、子音が多いことが指摘されている。
「そうです。」と言うとき、標準語では語尾が「des」となり、子音で終わる。関西弁(京都弁?)では「desu」と母音が強調される。この母音に感情がこもるのであり、子音の多い標準語では感情表現が困難だという説である。
だとすると、土佐弁から関西弁への移行だったら、違和感なく感情表現が可能ということになるが、実際のところどうなんだろう。
確かに、東京弁で話している人間が、すごみを効かせたり、感情をこめたい時だけ(いいかげんな)関西弁に切り替えることがよくある。
母音の「アイウエオ」は言葉ではなく“うめき”だと司馬遼太郎氏がどこかで書いていたと記憶している。標準語の軽やかな子音でけんかをするのは難しい。けんかや感情には“うめき”である母音が必要とされるということである。
もちろん問題は子音・母音ばかりではない。
高知で育った私には、人工語である標準語ではそもそも表現できない言葉が多々ある。いきなり下ネタになって申し訳ないが、東京では「オ○○コ」などというが、高知生まれの私にとってこの隠語はちっともいやらしく感じない。高知では「イ○コ」と言う。ちょっとの違いにすぎないがこちらはいやらしい語感がある。同じ意味だが実用的には別の言葉なのである。
腹を立てて、「バカヤロー」などと言っても本当はあまり感情をこめて言うことができない。どこか翻訳している感じがある。土佐弁で「なめたらいかんぜよ」と言った方がよほどすっきりする。
「大丈夫だよ。」というより、「なんちゃーないきに。」の方がおもいやりの気持ちがこもる。
「愛している。好きだ。」などとはもちろん言わない。この場合は土佐弁でも難しいが、気持ちを込めるには、「オレの気持ちはわかっちゅーろぅ?」とでも言うしかない(と思う)。
30年間東京に暮らしていても、いまだに標準語では自分の感情を表すことができず、もどかしい思いをしているのである。標準語は今後も私にとって不便でよそよそしい言葉でありつづけるだろう。
たった二本しかない腕でも“利き腕”は左右いずれかの一本のみである。
何十カ国語をしゃべる言語の天才であっても、マザータングに匹敵する言語の獲得は不可能なのではないかと想像するが、天才でない私に本当のところはもちろんわからない。
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