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2008.07.24
暑中お見舞い申し上げます。
2008.07.20
短い出逢いと長い別れ

去年の秋まで近所の駐車場の片隅でいつも寄り添うように暮らしていた三匹。ハチワレと黒と茶。世話をするおばさんもいたし、野良猫が暮らす環境としては悪くなかった。

しかし、いつの間にか黒と茶は居なくなり、いまも見かけるのはハチワレだけになった。

路上生活者の男性に拾われて一緒に暮らしていた猫。おっとりした性格で、一番人になついていたが、ある日誰かが連れ去ってしまった。
「いなくなっちゃったよ。連れて行かれたんだ。」
男性は寂しそうだった。
「きっと猫好きの人が飼うために連れて行ったんだよ。」
私がそう言うと、彼は黙ってうなづいた。

去年の春先までは元気に暮らしていたチビ。小さいくせに、テリトリーに迷い込んでくる野良猫を追っ払う元気な猫だった。
ある寒い日、猫缶を持って行ったがいつもの場所に姿を現さなかった。それから何度も訪ねたが二度と会うことはなかった。
短い出逢いと永い別れ…
野良猫とのつきあいはいつもそうだ。
2008.07.20
表現としてのスナップ写真とは その1

現代のスナップ写真の本質は象徴主義である。
スナップ写真はふたつに分けることができる。目に見える世界を写したスナップ=報道/記録写真と、目に見えない世界を表したスナップ=表現としてのスナップ写真である。ここでは後者の「表現としてのスナップ」について言及する。
タイム誌が活躍した時代のフォトエッセイが明白なテーマやそのテーマを強調する“組み写真”という手法で読者を特定の方向に導こうとしたのと対照的に、現代の表現としてのスナップ写真は明白なテーマを示さず、意図的に断片的イメージしか提示しない。そこに写っている被写体の持つ意味ではなく、それが喚起するイメージが作品の本質だからである。
一枚のスナップ写真が表現できる世界は断片的である。それゆえ多義的、暗示的であり、見る者を戸惑わせる反面、自由なイメージを喚起する力を持つ。一枚のスナップのもつイメージ喚起力は、見る者の新たな物語のパン種となり、物語素となる。見る者はスナップ写真に写っている被写体を見るのではなく、そこから喚起されるイメージをもとにそれぞれの物語を物語るのである。
美術用語を援用すると、現代スナップ写真のコンセプトは19世紀末に発展した象徴主義絵画と同根である。「象徴」は美術史を遡ればどんな古い時代にもあったが、中世キリスト教美術のアレゴリーと違い、19世紀末の象徴主義はその多義性、暗示性に本質がある。絵画の中にテーマを探すのではなく、見る者が自分の興味・関心・世界観に基づいてそれぞれに自己の物語を紡ぎ出すのが象徴絵画の正しい見方である。
現代スナップ写真の見方(読み方)も同様である。現代スナップ写真は作者の表現意図を知ることは重要ではない。スナップ写真が喚起するイメージをもとに、積極的に自己の物語を紡ぎ出して初めて見るという行為が完結するのである。逆に言うと、スナップ写真もまた読者にそのように見られることで初めて役目を終える。その意味で現代スナップは作家と読者の共同作業と言える。

具体例をあげてみよう。
シェイクスピアの『ハムレット』を知らなくても、ミレーのこの絵画作品(オフィーリア)を見て、なんらかの物語をイメージしない人がいるだろうか。この一枚の絵画に多くの物語素がつまっている。見る人はオリジナルの物語にとらわれることなく自分自身の物語を自由にイメージすることが許される。それが象徴絵画の見方であり、同様に表現としてのスナップ写真の見方である。
2008.07.19
今年も暑い暑い暑い暑い暑いと口走りそう。

葛西臨海公園 昔はここは海でした。
関東地方は今日梅雨明け宣言がありました。
暑いです!
もうすでにぐったりしています。
外出して、冷房の効いた店で回る寿司を食し、瓶ビールを呑んでやっと人心地がつきました。
昨年も一昨年も暑い暑い暑い暑い暑いとしつこくブログに書きましたが、今年もまた暑い暑いと口走ることになりそうです。いまからこんなに暑いようでは8月はどうなるのだろう。昨年の熊谷市の40度の記録を上回るかもしれません。たまらないなあ。
しかし、わたしは今年もエアコンを使わず扇風機で我慢するつもりです。堪らない場合は近所の喫茶店にでも逃げ込みます。
水風呂がいいらしいですが、めんどうです。
風鈴?
そんな風流なこといってられる暑さではありません。
きゅうりを食べると身体の熱が下がるらしいのでこれは試してみよう。
なにか有効な暑さ対策はないですか?
2008.07.14
瓶ビールありますか?

「エビス ザ・ブラック」を置いているのは「デニーズ」である。エライ!
昨日は暑かった。夜になった今も暑い!
こんな日はキンキンに冷えたビールに限る!
ビールといえば…
すでにブログで書いていることなので繰り返しになって恐縮なのだが、夏が来たのでまたこの話をしないではいられない。
生ビールしか置かない店の糾弾である。
私は生ビールが好きである。だから生ビールへの不満ではないことは先に断っておく。生ビールしか置こうとしない店の怠慢がゆるせないのである。
ビールを頼むと店の対応は次の4つのケースが普通である。
「ビールください。」
1 生と瓶、瓶はキリン、サッポロ、アサヒがありますが?
2 生、瓶とありますが?
3 生ビールになりますが?
4 黙って生ビールを持ってくる
1 は申し分ない。
2 は許せる。
3 ダメだが、瓶ビールが無いことをよくないことだと自覚しているだけまだ増しだ。
4 は言語道断である。
アルコールを出す店はサービス業でしょう。
生ビールしか置かず、黙って生ビールを差し出す店はサービスを放棄しているといわざるをえない。こんな話を毎年のようにするのは、大人げないと感じる向きもあるだろうが、決してどうでもいいことではない。
あなたはラーメン屋に入って、みそラーメンしかありませんといわれても平気ですか?
鮨屋でカッパ巻きしかありませんと言われたらどうか。
伊太利亜料理店でペペロンチーノだけだと言われたらどう思うのか。
生ビールと瓶ビールの両方を置かないような店は酒類扱い店の許可を剥奪して欲しいと思うぐらいである。
客をなめてはいけない。
ビールの恨みは大きいのである。
生ビールは好きですよ!(と繰り返しておく。)
腹立ちまぎれに追加
ビールのジョッキもキンキンに冷やしておくこと!
でないとあんなに分厚く重いジョッキにする理由がない。
中生ジョッキは小さすぎる。もう少し大きく!
大ジョッキは重すぎる!
カメラもジョッキも軽い方がいい。
2008.07.11
我が愛機GRデジタルがフリーズ!

我が愛機GRデジタルに、ADJボタンを押すとカメラがフリーズする現象が発生するようになった。これまで相当使い込んできたので、いよいよ寿命かと覚悟したが、どうやらずいぶん前から大勢のGRユーザーにも同様の症状が現れていて、「ADJ.ボタンフリーズ現象」と呼ばれているようだ。
いったん電源を切ると元にもどるが、ADJボタンを押すと再びフリーズする。ADJボタン以外にはなんの影響もないのでボタンに触れないようにしているが、やはりADJボタンが使えないと少々不便だ。
パナソニックのLC1のCCD不具合の時はメーカーの対応の悪さに気分を害したが、今回は十分使い込んできたので、ここまでよく頑張ってくれたね、ご苦労様ありがとう、といった気分の方が強い。
しかし、今ではGRデジタルはいつも持ち歩いていて、カバンの中にあって当然といった存在になっているのでこの故障は痛い。この機にGRデジタル2の購入も考えたが、初代と2は逆光時のゴーストの出方がかなり違うので2が欲しいとは感じない。
初代GRデジタルをもう一台買うか、修理に出すかといったところだ。修理代は8500円という情報もあるので修理が現実的だが、ADJボタンを押さなければ普通に使えるので修理に出すのもおっくうだ。しばらくこのまま使うことになると思う。

コンパクトデジタルは気に入って購入しても、しばらくすると飽きるものだが、このGRデジタルだけはそういうことがなかった。自分との相性がよほどよかったのだろう。今手にしているGRデジタルは例の初期不良のせいで5回も交換を繰り返した後やっと落ち着いた個体である。それだけに愛着もある。我がGRデジタルよ、もう少し長生きしてくれ!
『“Honiwaのページ”作者のblog』がこの現象に詳しい。
2008.07.10
月1回以上更新するブログの数はわずか約18%
インターネットで公開されている日本語のブログの数は1690万件である(2008年1月末現在)、と今朝の朝日新聞が伝えている。
記事を書いた記者はこの数を多いと見ているようだが、1690万件もの数になると、多いのかそうでないのか正直なところ実感がもてる数字じゃない。
しかしまあ多いのでしょうね。
おもしろいのは、というか驚いたのは、1ヶ月に1回以上更新されるブログの数がこの記事によるとたった約300万件しかないことだ。全体の約18%でしかない。
本当かなあ?
毎日更新するブログの数の誤りじゃなかろうか、だって1ヶ月に1回しか更新しないブログを含めてもたった18%ということは、それ以下の更新率のブログがほとんどってことじゃないですか。ちょっと驚くデータだなあ。
ちなみに世界には7千万件(2007年4月時点)のブログがあり、そのうち日本語のブログが37%を占めていてトップであるそうな。英語(36%)より多いのがこれまた驚きです(このデータは前から知ってたけど)。
当ブログも近頃は更新率が低下しているので更新について大きな顔はできないが、この記事が伝える更新率の低さを知ると、オレってけっこう頑張ってるんだな、とちょっぴり自信になった。少なくとも月1ということはないからね。
更新の数より記事の内容が大事だぜ、という見方も当然あるわけだけど…。
記事を書いた記者はこの数を多いと見ているようだが、1690万件もの数になると、多いのかそうでないのか正直なところ実感がもてる数字じゃない。
しかしまあ多いのでしょうね。
おもしろいのは、というか驚いたのは、1ヶ月に1回以上更新されるブログの数がこの記事によるとたった約300万件しかないことだ。全体の約18%でしかない。
本当かなあ?
毎日更新するブログの数の誤りじゃなかろうか、だって1ヶ月に1回しか更新しないブログを含めてもたった18%ということは、それ以下の更新率のブログがほとんどってことじゃないですか。ちょっと驚くデータだなあ。
ちなみに世界には7千万件(2007年4月時点)のブログがあり、そのうち日本語のブログが37%を占めていてトップであるそうな。英語(36%)より多いのがこれまた驚きです(このデータは前から知ってたけど)。
当ブログも近頃は更新率が低下しているので更新について大きな顔はできないが、この記事が伝える更新率の低さを知ると、オレってけっこう頑張ってるんだな、とちょっぴり自信になった。少なくとも月1ということはないからね。
更新の数より記事の内容が大事だぜ、という見方も当然あるわけだけど…。
2008.07.07
ブログデザイン変更しました。
ブログのデザインを変更しました。
管理者ページへの移行、編集作業など、管理者にとってとても便利になりましたが、変更したことで、読者の立場から不便に感じることがあるようでしたらお知らせください。
管理者ページへの移行、編集作業など、管理者にとってとても便利になりましたが、変更したことで、読者の立場から不便に感じることがあるようでしたらお知らせください。
2008.07.02
「ノートリミング」3つの意味
写真ブログなどで、「ノートリミング、ノーレタッチ、リサイズのみ」と書かれた写真キャプションを時々見かける。
ノーレタッチはわかるが、この「ノートリミング」はどういう意味があるんだろう。もちろんトリミングをしてませんという説明なのはわかるが、わざわざ断る理由はどこにあるのか?
「ノートリミング」という言葉がもつ意味について考えてみたい。
最もシンプルでわかりやすい意味での「ノートリミング」は、例えばGRデジタルやDP-1など単焦点レンズ搭載カメラや、一眼レフの単焦点レンズの作例/サンプル画像にこの言葉が添えられる時である。トリミングによって画角が変わってしまったらサンプル画像にならないからノートリミングは当然だ。むしろサンプル画像の場合はわざわざ断るまでもないだろう。
第二の意味での「ノートリミング」はちょっと微妙である。
こちらの「ノートリミング」は、ファインダー内で見た構図が最終決定で、撮影後はいっさい変更してません、というメッセージである。それだけならサンプル画像の場合と同じだが、違うのは、ファインダー内で完璧な最終構図を決めているからトリミングは必要ないんだオレ様は、エヘン!というオレ様自慢が多少含まれている点である。
余談だが、トリミングをしないことになっていた構図の神様・ブレッソンの『サンラザール・駅裏』(男が水たまりを飛び越えようとしているあの有名な決定的瞬間写真)が実はトリミングされていたというので話題(あるいは問題)になったのも、あくまでファインダーの中で最終的な構図を決めることに価値を見いだしている人が少なからず存在することを示していると思う。
「ノートリミング」の3番目の意味は、写真家の権利を守る「ノートリミング」である。
「ノートリミング」という言葉が写真史に新しい意味を担って登場するのは、ロバート・キャパやカルティエ・ブレッソンらが創設した写真エージェンシー『マグナム』においてだろう。
写真集『決定的瞬間』の序文でブレッソンは「トリミングの拒否」に言及している。ブレッソンの「ノートリミング」はサンプル画像や“ファインダーの中で構図を決めるオレ様”の場合とは事情を異にする。
プロの写真家の写真がグラフ誌や新聞に発表されるまでには、媒体経営者や編集者、作家、デザイナーなど関係者がからんでくる。『マグナム』誕生以前はカメラマンの撮った写真がデザイナーの手で勝手にトリミングされたり、編集者が勝手なキャプションをつけたり、別のテキスト内の文脈の中で写真が使用されることが普通だったため、写真家の撮影時の撮影意図を擁護するのが難しかった。こうした事情から写真家のクリエイティビティを守る目的で使われたのがブレッソンの「トリミングの拒否(ノートリミング)」のもつ意味である(キャプションやテキストによる写真への干渉は「演出写真の否定」として言及されているがここでは触れない)。
高い志をもった優秀なカメラマン集団『マグナム』の努力で「ノートリミング」の新しい意味と価値が誕生したわけである。
ただ、個人的な考えを挟ませてもらうと、ブレッソンのノートリミングはあくまで他人の手によるトリミングを拒否したものであり、写真家自身によるトリミングを否定したわけではないと思う。
以上がわたしが考える「ノートリミング」の3つの意味である。
「ファインダー内最終構図派」にちょっと意地悪な言い方になっているのは、わたしがノートリミングにこだわっていないせいだ。森山大道はリコーGRの21mmや28mmの広角レンズで素早く撮って、後で好きなようにトリミングしていたはずだが、わたしも、カメラマンが納得のいく構図を得るためのトリミング行為が批判される理由はないと思っている。森山大道はスナップだからだという指摘があるかもしれないが、別にどんなジャンルの写真であってもノートリミングにこだわる必要はないと思う。
「ファインダー内最終構図派」はトリミングを一段低い行為と見なしているように感じて、時々「オレ様」意識が臭うことがあるのだが、わたしの勘違いだろうか。
「ファインダー内最終構図」主義を全面否定するつもりは毛頭ない。できるならそうしたほうがベターだ。その方が満足度が高いに決まっている。ただ、そうしたこだわりが写真表現の幅を狭めることになりはしないかと心配しているのである。
ヘタレ・アマチュアカメラマンのわたしに心配してもらいたくないのは重々承知しておりますが…。
ノーレタッチはわかるが、この「ノートリミング」はどういう意味があるんだろう。もちろんトリミングをしてませんという説明なのはわかるが、わざわざ断る理由はどこにあるのか?
「ノートリミング」という言葉がもつ意味について考えてみたい。
最もシンプルでわかりやすい意味での「ノートリミング」は、例えばGRデジタルやDP-1など単焦点レンズ搭載カメラや、一眼レフの単焦点レンズの作例/サンプル画像にこの言葉が添えられる時である。トリミングによって画角が変わってしまったらサンプル画像にならないからノートリミングは当然だ。むしろサンプル画像の場合はわざわざ断るまでもないだろう。
第二の意味での「ノートリミング」はちょっと微妙である。
こちらの「ノートリミング」は、ファインダー内で見た構図が最終決定で、撮影後はいっさい変更してません、というメッセージである。それだけならサンプル画像の場合と同じだが、違うのは、ファインダー内で完璧な最終構図を決めているからトリミングは必要ないんだオレ様は、エヘン!というオレ様自慢が多少含まれている点である。
余談だが、トリミングをしないことになっていた構図の神様・ブレッソンの『サンラザール・駅裏』(男が水たまりを飛び越えようとしているあの有名な決定的瞬間写真)が実はトリミングされていたというので話題(あるいは問題)になったのも、あくまでファインダーの中で最終的な構図を決めることに価値を見いだしている人が少なからず存在することを示していると思う。
「ノートリミング」の3番目の意味は、写真家の権利を守る「ノートリミング」である。
「ノートリミング」という言葉が写真史に新しい意味を担って登場するのは、ロバート・キャパやカルティエ・ブレッソンらが創設した写真エージェンシー『マグナム』においてだろう。
写真集『決定的瞬間』の序文でブレッソンは「トリミングの拒否」に言及している。ブレッソンの「ノートリミング」はサンプル画像や“ファインダーの中で構図を決めるオレ様”の場合とは事情を異にする。
プロの写真家の写真がグラフ誌や新聞に発表されるまでには、媒体経営者や編集者、作家、デザイナーなど関係者がからんでくる。『マグナム』誕生以前はカメラマンの撮った写真がデザイナーの手で勝手にトリミングされたり、編集者が勝手なキャプションをつけたり、別のテキスト内の文脈の中で写真が使用されることが普通だったため、写真家の撮影時の撮影意図を擁護するのが難しかった。こうした事情から写真家のクリエイティビティを守る目的で使われたのがブレッソンの「トリミングの拒否(ノートリミング)」のもつ意味である(キャプションやテキストによる写真への干渉は「演出写真の否定」として言及されているがここでは触れない)。
高い志をもった優秀なカメラマン集団『マグナム』の努力で「ノートリミング」の新しい意味と価値が誕生したわけである。
ただ、個人的な考えを挟ませてもらうと、ブレッソンのノートリミングはあくまで他人の手によるトリミングを拒否したものであり、写真家自身によるトリミングを否定したわけではないと思う。
以上がわたしが考える「ノートリミング」の3つの意味である。
「ファインダー内最終構図派」にちょっと意地悪な言い方になっているのは、わたしがノートリミングにこだわっていないせいだ。森山大道はリコーGRの21mmや28mmの広角レンズで素早く撮って、後で好きなようにトリミングしていたはずだが、わたしも、カメラマンが納得のいく構図を得るためのトリミング行為が批判される理由はないと思っている。森山大道はスナップだからだという指摘があるかもしれないが、別にどんなジャンルの写真であってもノートリミングにこだわる必要はないと思う。
「ファインダー内最終構図派」はトリミングを一段低い行為と見なしているように感じて、時々「オレ様」意識が臭うことがあるのだが、わたしの勘違いだろうか。
「ファインダー内最終構図」主義を全面否定するつもりは毛頭ない。できるならそうしたほうがベターだ。その方が満足度が高いに決まっている。ただ、そうしたこだわりが写真表現の幅を狭めることになりはしないかと心配しているのである。
ヘタレ・アマチュアカメラマンのわたしに心配してもらいたくないのは重々承知しておりますが…。
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「暴力はいけない」が少なくて良かったと思っています。
写真の女性の必死の形相を見てください。
大勢の人が職や財産を無くし、路頭に迷い、首を吊っている土佐の酔鯨緒方拳急逝 享年71緒方拳さんが突然ポックリ逝きたかった?
実践した? スゴイ思考回路だな。
それではあなたも実践しますか?
家族や、まだ生きたかったであろう御本人のキモチを考えたジョー・ブラックあなたの本音は?暴力はいけないと思います。
しかし、リチャード・ファルド・ジュニア氏の退職金は2億9900万ドルと聞いたら殴りたくなる人は多いと思います。殴って気が済むわけでもないbiwakokayo4緒方拳急逝 享年71うっしーさん、
もっと歳をとった緒方拳の演技を見たかったですね。
遺作となる「風のガーデン」は今日午後10時からです。
見ましょうね。わたしはビデオにも採っておき土佐の酔鯨緒方拳急逝 享年71今日のニュースで緒方さんが「70〜80歳くらいが身体が
思うように動かなくなって(役者として)面白い時期だと思う」
という内容のことを話していました。
今あるうっしーおわびMr.SCHOPさん、
初めましてようこそ。
GRDはいつもカバンに入っています。
これだけ使い込んだカメラは他にありません。
使いすぎて最近ではガタが来てしまいました。
土佐の酔鯨緒方拳急逝 享年71ほりさん、
肝ガンでしたが入院や手術は拒否していたようですね。
「風のガーデン」は必ず観たいと思います。土佐の酔鯨