写真ブログなどで、「ノートリミング、ノーレタッチ、リサイズのみ」と書かれた写真キャプションを時々見かける。
ノーレタッチはわかるが、この「ノートリミング」はどういう意味があるんだろう。もちろんトリミングをしてませんという説明なのはわかるが、わざわざ断る理由はどこにあるのか?
「ノートリミング」という言葉がもつ意味について考えてみたい。

最もシンプルでわかりやすい意味での「ノートリミング」は、例えばGRデジタルやDP-1など単焦点レンズ搭載カメラや、一眼レフの単焦点レンズの作例/サンプル画像にこの言葉が添えられる時である。トリミングによって画角が変わってしまったらサンプル画像にならないからノートリミングは当然だ。むしろサンプル画像の場合はわざわざ断るまでもないだろう。

第二の意味での「ノートリミング」はちょっと微妙である。
こちらの「ノートリミング」は、ファインダー内で見た構図が最終決定で、撮影後はいっさい変更してません、というメッセージである。それだけならサンプル画像の場合と同じだが、違うのは、ファインダー内で完璧な最終構図を決めているからトリミングは必要ないんだオレ様は、エヘン!というオレ様自慢が多少含まれている点である。
余談だが、トリミングをしないことになっていた構図の神様・ブレッソンの『サンラザール・駅裏』(男が水たまりを飛び越えようとしているあの有名な決定的瞬間写真)が実はトリミングされていたというので話題(あるいは問題)になったのも、あくまでファインダーの中で最終的な構図を決めることに価値を見いだしている人が少なからず存在することを示していると思う。

「ノートリミング」の3番目の意味は、写真家の権利を守る「ノートリミング」である。
「ノートリミング」という言葉が写真史に新しい意味を担って登場するのは、ロバート・キャパやカルティエ・ブレッソンらが創設した写真エージェンシー『マグナム』においてだろう。
写真集『決定的瞬間』の序文でブレッソンは「トリミングの拒否」に言及している。ブレッソンの「ノートリミング」はサンプル画像や“ファインダーの中で構図を決めるオレ様”の場合とは事情を異にする。

プロの写真家の写真がグラフ誌や新聞に発表されるまでには、媒体経営者や編集者、作家、デザイナーなど関係者がからんでくる。『マグナム』誕生以前はカメラマンの撮った写真がデザイナーの手で勝手にトリミングされたり、編集者が勝手なキャプションをつけたり、別のテキスト内の文脈の中で写真が使用されることが普通だったため、写真家の撮影時の撮影意図を擁護するのが難しかった。こうした事情から写真家のクリエイティビティを守る目的で使われたのがブレッソンの「トリミングの拒否(ノートリミング)」のもつ意味である(キャプションやテキストによる写真への干渉は「演出写真の否定」として言及されているがここでは触れない)。
高い志をもった優秀なカメラマン集団『マグナム』の努力で「ノートリミング」の新しい意味と価値が誕生したわけである。
ただ、個人的な考えを挟ませてもらうと、ブレッソンのノートリミングはあくまで他人の手によるトリミングを拒否したものであり、写真家自身によるトリミングを否定したわけではないと思う。

以上がわたしが考える「ノートリミング」の3つの意味である。
「ファインダー内最終構図派」にちょっと意地悪な言い方になっているのは、わたしがノートリミングにこだわっていないせいだ。森山大道はリコーGRの21mmや28mmの広角レンズで素早く撮って、後で好きなようにトリミングしていたはずだが、わたしも、カメラマンが納得のいく構図を得るためのトリミング行為が批判される理由はないと思っている。森山大道はスナップだからだという指摘があるかもしれないが、別にどんなジャンルの写真であってもノートリミングにこだわる必要はないと思う。
「ファインダー内最終構図派」はトリミングを一段低い行為と見なしているように感じて、時々「オレ様」意識が臭うことがあるのだが、わたしの勘違いだろうか。

「ファインダー内最終構図」主義を全面否定するつもりは毛頭ない。できるならそうしたほうがベターだ。その方が満足度が高いに決まっている。ただ、そうしたこだわりが写真表現の幅を狭めることになりはしないかと心配しているのである。
ヘタレ・アマチュアカメラマンのわたしに心配してもらいたくないのは重々承知しておりますが…。