去年の秋まで近所の駐車場の片隅でいつも寄り添うように暮らしていた三匹。ハチワレと黒と茶。世話をするおばさんもいたし、野良猫が暮らす環境としては悪くなかった。

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しかし、いつの間にか黒と茶は居なくなり、いまも見かけるのはハチワレだけになった。

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路上生活者の男性に拾われて一緒に暮らしていた猫。おっとりした性格で、一番人になついていたが、ある日誰かが連れ去ってしまった。
「いなくなっちゃったよ。連れて行かれたんだ。」
男性は寂しそうだった。
「きっと猫好きの人が飼うために連れて行ったんだよ。」
私がそう言うと、彼は黙ってうなづいた。

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去年の春先までは元気に暮らしていたチビ。小さいくせに、テリトリーに迷い込んでくる野良猫を追っ払う元気な猫だった。
ある寒い日、猫缶を持って行ったがいつもの場所に姿を現さなかった。それから何度も訪ねたが二度と会うことはなかった。

短い出逢いと永い別れ…
野良猫とのつきあいはいつもそうだ。



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現代のスナップ写真の本質は象徴主義である。
スナップ写真はふたつに分けることができる。目に見える世界を写したスナップ=報道/記録写真と、目に見えない世界を表したスナップ=表現としてのスナップ写真である。ここでは後者の「表現としてのスナップ」について言及する。
タイム誌が活躍した時代のフォトエッセイが明白なテーマやそのテーマを強調する“組み写真”という手法で読者を特定の方向に導こうとしたのと対照的に、現代の表現としてのスナップ写真は明白なテーマを示さず、意図的に断片的イメージしか提示しない。そこに写っている被写体の持つ意味ではなく、それが喚起するイメージが作品の本質だからである。
一枚のスナップ写真が表現できる世界は断片的である。それゆえ多義的、暗示的であり、見る者を戸惑わせる反面、自由なイメージを喚起する力を持つ。一枚のスナップのもつイメージ喚起力は、見る者の新たな物語のパン種となり、物語素となる。見る者はスナップ写真に写っている被写体を見るのではなく、そこから喚起されるイメージをもとにそれぞれの物語を物語るのである。

美術用語を援用すると、現代スナップ写真のコンセプトは19世紀末に発展した象徴主義絵画と同根である。「象徴」は美術史を遡ればどんな古い時代にもあったが、中世キリスト教美術のアレゴリーと違い、19世紀末の象徴主義はその多義性、暗示性に本質がある。絵画の中にテーマを探すのではなく、見る者が自分の興味・関心・世界観に基づいてそれぞれに自己の物語を紡ぎ出すのが象徴絵画の正しい見方である。
現代スナップ写真の見方(読み方)も同様である。現代スナップ写真は作者の表現意図を知ることは重要ではない。スナップ写真が喚起するイメージをもとに、積極的に自己の物語を紡ぎ出して初めて見るという行為が完結するのである。逆に言うと、スナップ写真もまた読者にそのように見られることで初めて役目を終える。その意味で現代スナップは作家と読者の共同作業と言える。

オフィーリア

具体例をあげてみよう。
シェイクスピアの『ハムレット』を知らなくても、ミレーのこの絵画作品(オフィーリア)を見て、なんらかの物語をイメージしない人がいるだろうか。この一枚の絵画に多くの物語素がつまっている。見る人はオリジナルの物語にとらわれることなく自分自身の物語を自由にイメージすることが許される。それが象徴絵画の見方であり、同様に表現としてのスナップ写真の見方である。