
あきもせず、10年近くも写真を撮り続けてきて、今ではハードディスクの写真フォルダーにはうなるほどの写真が蓄積されている。
だけど、ハードディスクが突然クラッシュしてそれらの写真が消え去ったとしてもささほど未練は感じない。思い入れのある写真も、懐かしい写真も、記録としての写真も少なくないけど、どうしても残しておきたいとまでこだわる写真はほとんど無いことに気づいたからである。
どうしても残しておきたい写真は限られている。
それらは、家族や友人・知人、わずかでも精神的な交流のあった人たちが写っているいわゆる記念写真である。
当ブログも御多分にもれず、カメラやレンズやフィルムにそれなりにこだわっていろいろとえらそうに薀蓄を垂れてきたけど、ここで言う大切な記念写真は、たいてい写真センスとか構図とか解像力とかダイナミックレンジとかホワイトバランスとか収差とかに関係なく、ごく普通に無造作に撮られた写真群であった。残すべき本当に大切な写真は、カメラやレンズの性能やら機能やら難しい写真テクニックとやらにほとんど依拠していなかったということである。

もし、写真は「窓」か「鏡」かと問われたら、迷わず鏡だと答えるだろう。
カメラのファインダーは世界を覗き見る窓というより、(自分でも意識していない)自分の内面が投影された鏡だと思う。
世界の果てまで行って珍しい風景や習俗や文化、人間を撮ったとしても、それらが自分の内面と密接なつながりをもっていなかったならば、ハードディスクのクラッシュとともに消え去ったとしてもあまり惜しいとは思わないということである。
そして残念なことに、これまで撮り溜めてきた私の写真フォルダーの中の膨大な数の写真のほとんどはそうした惜しくない写真ばかりだった。この10年を振り返ってみて、本当に大切と思える写真が少ないことに気づいたのは、自分のこれまでの写真哲学の薄っぺらさを思い知らされたようで悲しかったけど、でもたくさんのカメラやレンズをいじり、薀蓄を垂れ、たくさんの写真を撮ってきた行為がとても楽しかったという事実は別問題である。愉しめる才能こそアマチュアにとって最も必要な才能である。そう考えれば、この10年間の写真生活もあながち落胆する内容ではなかったと思い直したりもするのである。
(トップの写真は土佐の酔鯨その人である。モノクロじゃんか!戦前かよ!というツッコミは却下する。そういう時代だったのである)
ハービー山口 ロングインタビュー:「僕は、人間が人間を好きになるような写真を撮りたいんです。人間が人間をもっと好きになれば、もうちょっと世の中は平和になるんじゃないだろうかと…」http://goo.gl/kdtqy